7月8日 読売新聞 編集手帳

 中国共産党に君臨した毛沢東が専用列車で国内を旅したとき、沿線の党支部は遠方の水田から見ばえのいい稲穂を大量に抜き取り、線路に沿って植え替えた
 最高権力者に誉めてもらいたい一心から出た豊作の偽装工作であったと、毛主席の元主治医、李志綏氏が「毛沢東の私生活」(文芸春秋刊)に書いている
 1年前の北京五輪開会式には、民族衣装を着た「中国の56民族からの56人の子供たち」が登場し、団結を世界に誇示した。じつは偽りで、大半が漢族の子供だった事が後に露見している。だます相手が独裁者から国際社会に、偽装の小道具が稲穂から子供に変わっただけである
 新疆ウイグル自治区で起きたウイグル族による暴動の方を聞く。死亡者は150人以上という。厳しく抑圧されてきた少数民族の不満が事件の根にあるといわれ、力ずくの鎮圧で「声」を封じられる雲行きにはない。また、封じてはならないだろう
 今年10月の建国60年を機に、共産党政権は「歴史的功績」を自賛する予定という。経済がいかに成長しようとも、人間の尊厳が1本の稲穂ほどに軽い国で、何を誇るのだろう。

7月7日 読売新聞 よみうり寸評

 <素直>という名が泣いている。その名と放火、殺人の容疑との落差は大きい。自ら出頭してきたところだけが、わずかに素直か
 大阪市此花区のパチンコ店「CROSSニコニコ」に放火したと出頭してきた男は「高見素直」と名乗った。現場から400㍍のマンションの独り暮らし
 素直とは、名付けた人の願いがうかがわれるが、とんでもない犯行に及んだ。名は体を表さず。ひねくれて素直でないのは、もう41歳だから、本人の責任だ。本来なら分別盛りの年齢ではないか
 それなのに「複数の消費者金融から借金がある。仕事も金もなく、人生に嫌気がさして、通り魔みたいに人を殺したいと思った」などとうそぶいている
 また「だれでもよかった」の不条理がくり返された。不特定多数の殺傷は秋葉原、荒川沖などの事件と同じだが、今度は<アラフォー、昔なら不惑>の犯行
 「だれでもいい」標的が自分だとしたら、どうなんだ。考えてもみないのか。こんな無分別に命を奪われた4人の無念は限りない。

7月7日 読売新聞 編集手帳

 鉄筋コンクリートの橋は丈夫だが、木の橋には木の橋で、いいところがあるらしい。文芸春秋の元編集者で随筆家の故・車谷弘さんが「銀座の柳」(中公文庫)に書いている
 子供の頃から何度も洪水を経験した車谷さんによれば、木の橋の良さはすぐ流されることだという。頑丈な橋は木材などの流出物をせきとめてしまい、いずれは怒涛となってあふれ出る。木の橋は被害を小さくとどめる昔の人の知恵であった、と
 工学音痴の身に車谷説の当否を語る資格はないが、人の心に架かる橋ならばその通りだろう。奈良県桜井市の駅ホームで起きた事件はやりきれない
 男子高校生が同級生の男子生徒に刺されて死亡した。昨年秋に仲たがいしたという。理由が何にせよ、頑丈な橋でせきとめ、溜め、怒涛を爆発させなくては晴らせないほどの恨み、憎しみが高校生同士の交友にあろうとは思えない。加害者生徒の心に、流れやすい橋があったなら
 きょうは七夕、織姫と彦星を隔てる天の川よりも、橋を架けるのが難しい川が地上にはある。人の心と心を隔てる川に「木の橋」を―胸の短冊に書いてみる。

7月6日 読売新聞 よみうり寸評

 <いつ果てるともなく>とは、このゲームの為の言葉かと思うようなファイナルセットだった
 テニスのウィンブルドン選手権最終日の男子シングルス決勝、ロジャー・フェデラー(スイス)対アンディ・ロディック(米)は、最終セットだけで30ゲームも重ね、フルセットで77ゲーム。これは決勝としては最多記録、4時間18分の激闘だった
 <テニスでもっとも大切なのは集中力。これを欠くと大選手でも勝てない>とテニス名言集にあるが、よくも集中力が途切れず続くものだ。テレビ桟敷で深夜まで見ているだけでも疲れるのに
 互いに自分のサービスをキープし続けて譲らない。フェデラーはビッグサーバーのロディックを上回る50回(大会記録は51)ものサービスエースを見せた
 ウィンブルドンでは技術は無論だが、集中力に加え、体力・耐久力と何事にも動じない精神力が不可欠。それが2人はほとんど互角
 では何がフェデラーをこの大会6度目の優勝に導いたのか?わずかに勝る経験の差と見た。

7月6日 読売新聞 編集手帳

 「レイキャビクで、核のない世界を目指す私の希望は、しばし舞い上がったのち地に落ちた」―米国のレーガン元大統領は、決裂に終わった1986年10月のゴルバチョフソ連共産党書記長との米ソ首脳会談をこう回想している
 核軍備競争に邁進した冷戦時代の両超大国の指導者が、核戦力の大幅削減という劇的合意を目前にしながら、握手もなしに別れたのは、宇宙空間で核ミサイルを破壊する米国の戦略防衛構想(SDI)が原因だった
 それから23年。同じく「核のない世界」を究極の目標に掲げるオバマ米大統領がきょう、モスクワ入りし、ロシアのメドベージェフ大統領との首脳会談に臨む
 レーガン時代の交渉を基礎に、米露両国は、戦略核弾頭の数を、冷戦期の60%程度まで減らした。それをさらにどこまで削減できるのか。今回、ロシアは米国のミサイル防衛(MD)の東欧配備に強く反発している
 オバマ大統領は、「核兵器を使用した事がある唯一の核保有国として米国には行動する道義的責任がある」と宣言した。その言葉通り、核軍縮で成果をあげられるのか、大いに注目したい。

7月5日 読売新聞 編集手帳

 <仕事を幸福の原因の一つに数えるべきか、それとも、不幸の原因の一つに数えるべきか>。バートランド・ラッセルの幸福論第14章「仕事」の書き出しだ
 日本生産性本部が今年入社の会社員約3000人に「デートの約束がある時に残業を命じられたらどうするか」と質問した。結果は、仕事を選んだ人が83%、デートを選んだ人が17%だったという
 ほう、そうですか―と聞き流すこともできるが、同じ問いを1972年(昭和47年)から続けていると聞けば興味がわく。今年の数字は、仕事を選んだ人が過去最高、デートは過去最低らしい。ちなみに同年の調査では、仕事69%、デート30%だった
 定年間近にさしかかった72年当時の新入社員の皆さんは、今年の新人諸君をどう見るだろう。頼もしいと感じるかもしれないし、あるいは、この不況では会社に従順にならざるを得まい、と同情するのかもしれない。調査から何を読み取るかは難しい
 デートより優先するかどうかはさておき、できれば仕事は楽しくやりたい。ラッセルはそうするための要素の一つを「建設的であることだ」と言っている。

7月4日 読売新聞 よみうり寸評

 「えっ、どうしたの?」。スタンドのあちこちから、そんな声が上がった。「ちゃんと説明しろよ」。怒りを込めたヤジも飛んだ
 先日の東京ドーム、巨人―ヤクルト戦でのこと。二回、巨人の先発グライシンガーが打者を三振に仕留め、ベンチに戻ろうとした。が、審判が待ったをかけた。三塁走者はホームイン。事態をのみ込めない観客は「?」
 原因はグライシンガーのボーク。投球に入る前、体が完全に静止しなかったのだという。翌日の新聞で知った。しかし、球場では審判から何の説明もないまま、試合が再開された
 大相撲で物言いがつくと勝負審判が場内に協議結果を説明する。競馬でも、馬の斜行などでレースが審議になると、内容のアナウンスがある。重要なファンサービスだ
 テレビで観戦していた人は実況の中でボークだと分かっただろう。だが、お金を払って球場に行った人たちに何の説明もないのは、やはり変だ
 正確なジャッジをするのが審判の仕事だが、ファンサービスも忘れないでほしい。