7月11日 読売新聞 編集手帳

 小椋佳さんが作詞し、作曲した「ほんの二つで死んでゆく」という歌がある。ご自身の経験ではないが、事故で早世した2歳の男の子に捧げた曲という
 <雨が降る 僕はしずくをかき集め/ほんの二つで死んでゆく/あなたの小舟を浮かべたい…>。36年前の同名のアルバムに収められている。せつない歌詞を久しぶりに口ずさんでみた
 2歳の男の子、菅野優衣ちゃんが都内の自宅で死亡したのは昨年12月である。きのう、両親が逮捕された。ゴミ箱に押し込み、自力で脱出できないようにふたをして、窒息死させた疑いがもたれている
 <ゆりかごのうたを かなりやがうたうよ…>。カナダの小児病院で皇后さまが難病の子供たちに歌われた子守唄に、テレビの前で聴き入ったばかりである。おさな子が大好きな場所は、どこだろう。ゆりかごもそう、抱かれた母の胸もそう、肩車をしてくれる父の肩の上もそうだろう。ゴミ箱のなかではない
 雨のしずくを集めた湖の上で、おさな子の小舟は揺れる。小椋さんの歌は、次のように結ばれている。<はかない運命に死ぬ時も/ゆりかごにゆれているように>

7月10日 読売新聞 よみうり寸評

 <会社の風土>―4年前のJR福知山線脱線事故の際に、当時のJR西日本のトップがこの言葉を使った
 言われてみれば、どこの会社にもそれぞれに特有の<風土>があるに違いない。良いものは伝統として継承していけばいい。が、悪い風土なら、急いで根本的に改良しなければなるまい
 乗客106人が死亡したあの大脱線事故の直接の原因は、運転士が制限速度を大幅に超えた高速で急カーブに進入したためだが、それを招いたさまざまな状況や背景は、JR西日本という会社の風土に根ざしていると言われても仕方がない
 神戸地裁JR西日本山崎正夫社長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴した。「カーブの危険を認識できたのに、経費増大を懸念し、ATSを設置しなかった」
 この起訴理由は<利益第一、ダイヤ優先、安全は二の次>と言い換えてもおかしくない。運転士は死亡、書類送検や告訴された歴代幹部11人は嫌疑不十分で不起訴
 企業風土は起訴できないが、遺族らの反応は「なぜ社長だけ?」だ。

7月10日 読売新聞 編集手帳

 森鷗外うたかたの記」は、少女とのはかない恋を描いている。少女は湖で死ぬ。遺体が引き上げられた時、芦辺から蛍が現れた。<あはれ、こは少女が魂の抜け出でたるにあらずや>
 亡き人の霊のように、光り、舞う。蛍の季節になると思い出す光景がある。4年前の4月、JR福知山線で乗客106人が死亡した脱線事故の記事である
 救助隊員が車内に入ったとき、折り重なる遺体のそばには携帯電話が散乱していた。暗がりのあちこちで光り、呼び出し音が鳴る。切れても、すぐにまた光る。ニュースで事故を知った家族が一刻も早く無事な声を聞きたくて、祈るように電話をかけつづけていたのだろう
 当時、安全対策の責任者だったJR西日本の社長が一昨日、業務上過失致死傷罪で在宅起訴された。社長は法廷で争う意向という。いかなる裁きになるとしても、安全の徹底が何よりの供養であることに変わりはない。
 「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」とは国文学者の中西進さんによれば、あの世からこの世へ魂を呼び寄せる歌だという。車内に明滅した携帯電話の蛍が眼裏に浮かぶ。

7月9日 読売新聞 よみうり寸評

 <美しい牧場>―ウルムチとはそういう意味だ。中国新疆ウイグル自治区の区都。高層ビルが立ち並ぶ大都会で牧歌的な情景は昔のこと
 経済的発展はいいとして、元牧場が今や<パレスチナ化>の過程にあるといわれる。ウイグル族と漢族の互いの憎悪が流血の衝突にエスカレートして、パレスチナ化とは深刻だ
 ラクイラ・サミットの出席をとりやめ、胡錦濤国家主席がイタリアから急ぎ帰国した。なりふりかまわずの帰国が5日以来の事態の深刻さを物語る
 主席自らの指揮で早期の沈静化をはかるということだろう。北京五輪の昨年はチベット自治区で、今年はサミットの時期に新疆ウイグル自治区で、騒動が続く
 「西部大開発」と称して、中国政府はこれら少数民族自治区に大量の国家資金をつぎ込んできた。が、自治区を安定させるには経済成長だけでは限界がある
 国家資金と共に漢族も多数入ってきた。民族融和を唱えても、ウイグル側の文化、宗教、自主権は抑えられているという不満が深い。

7月9日 読売新聞 編集手帳

 芸人は食うものを食わなくても、着るものには金をかけろよ。無名時代のビートたけしさんにコメディアンの師匠、深見千三郎さんはそう教えたという
 <腹へってんのは見えねぇけど、どんな服着てるかってのはすぐにわかるぜ>と。たけしさんの自伝エッセーにある。人気商売に欠かせない、見栄を張ることの大切さを説いたのだろう
 世間を明るく照らす人気商売ということでは、政治家も喜劇人に似ている。貧乏が外見に透けて、拍手(票)はもらえまい。「私を総裁候補にするなら…」とコケにされても、自民党東国原英夫・宮崎県知事の衆院選出馬に執心している。見栄もなりふりも捨てた姿には、「そこまで、お困りか」と哀れを誘うものがある
 知事の特異な発信力は認めるにせよ、マイクの性能だけ高めても自民党の歌唱力が上達しなければ、聴き手の耳には大音量が逆に迷惑だろう。日本郵政問題や閣僚補充人事で露呈した“世論音痴”をマイクでごまかすのは誠実なやり方とは言えない
 金品をねだる事を「無心」という。心を無くす、と書く。人気ねだって、心をなくしてはいけない。

7月8日 読売新聞 よみうり寸評

 <97歳の始球式>―巨人のOBで最高齢の前川八朗さんがきのう、東京ドームの巨人−横浜戦で始球式を行った。おそらく始球式では史上最高齢記録だろう
 投球はさすがにホーム手前でバウンドしたが、97歳でマウンドに上がる―この元気な姿がうれしい。球団創立75周年の長い歴史をしのばせる始球式だった
 ユニホームはグレーの上下、胸のマークはTOKYO GIANTSと2段組。1936年、巨人が第2次米国遠征で着用したデザインを復刻したもの
 前川さんは巨人草創期の投手でこの遠征の一員だった。マーク2段組のこのユニホームはペナントレースでは使われなかった
 戦後も1度だけ1953年に2段組が作られたが、これも米国サンタマリアのキャンプのみで、公式戦には使われなかった
 この米キャンプ以降、オレンジと黒がチームカラーに定着してゆく。戦中は左胸に漢字で「巨」の時代もあった。7〜9日の横浜戦はマーク2段組ユニホームが公式戦で初めて着用される3連戦だ。