7月10日 読売新聞 編集手帳

 森鷗外うたかたの記」は、少女とのはかない恋を描いている。少女は湖で死ぬ。遺体が引き上げられた時、芦辺から蛍が現れた。<あはれ、こは少女が魂の抜け出でたるにあらずや>
 亡き人の霊のように、光り、舞う。蛍の季節になると思い出す光景がある。4年前の4月、JR福知山線で乗客106人が死亡した脱線事故の記事である
 救助隊員が車内に入ったとき、折り重なる遺体のそばには携帯電話が散乱していた。暗がりのあちこちで光り、呼び出し音が鳴る。切れても、すぐにまた光る。ニュースで事故を知った家族が一刻も早く無事な声を聞きたくて、祈るように電話をかけつづけていたのだろう
 当時、安全対策の責任者だったJR西日本の社長が一昨日、業務上過失致死傷罪で在宅起訴された。社長は法廷で争う意向という。いかなる裁きになるとしても、安全の徹底が何よりの供養であることに変わりはない。
 「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」とは国文学者の中西進さんによれば、あの世からこの世へ魂を呼び寄せる歌だという。車内に明滅した携帯電話の蛍が眼裏に浮かぶ。